こんにちは。りかです。
今日は写真の話です。
大正時代の日本をフランスで見る
私には、フランスに住む妹がいます。
妹の夫は、フランス人です。フランスには純粋なフランス人の血の人は少ないのだそうです。妹の夫は
「パリで、フランス以外の血が混ざっていないフランス人を見つけるのは難しいよ」
と言っていました。妹の夫も例外なく、ロシアの血筋です。
ここから妹の夫をアントニーノ(仮名)とします。
ちょっと話が逸れますが、日本人はほとんど血が混ざっていない国です。
血統主義なので、欧米人の感覚とはちょっと違いますね。
例えば、出生地主義のアメリカで、日本人夫婦から生まれた子供は二重国籍になります。子供が成人した時に、アメリカ国籍を選んだとしたら、その子はアメリカ人です。でも私たちは、そういった子の活躍をテレビで見ると
「おぉ、すごい!アメリカで日本人が頑張っている!」
という感覚になりますよね。血が日本であれば日本人、という潜在的な意識。良いこともあるのかもしれませんが、時には差別を生む危うい感覚のように思います。
さて、話を戻します。
今日、紹介したいのは昔の日本の写真なのです。
妹の義母が持っている写真です。
フランス人の義母が日本の写真を持っていること、不思議ですよね。
写真は、アントニーノの祖父の記録なのです。
1917年、ロシアの貴族だったアントニーノの祖父は殺されるか亡命するかの選択しかなかったそうです。
フランスに亡命するまでの1917年から1923年(大正6年〜大正12年)の間、日本にいました。彼の最初の奥さん(アントニーノの祖母にはあたりません)が、日本の上流階級と繋がりがありました。彼女のおかげで、日本経由で逃げることができたんですね。
妹の義母は、彼の人生をたくさん聞かされ、彼の人生を語った6本のカセットテープを預けられているそうです。
妹が嫁いだのも、何かの縁を感じます。
1923年9月 横浜。関東大震災の時の写真です。
パスポート
日本の部分を拡大。手書きです。
写真の一部を紹介してみました。他にも、たくさんの写真があります。もんぺ姿の少女の写真もあれば、洋服を着たおかっぱの姉妹もいました。
アントニーノの祖父は日本にどんな印象を持ったんでしょうか。
写真って不思議ですよね。
妹の親族の写真というと、何故か興味を持ってしまします。図書館で見る大正時代の資料に興味を持ったことはなかったのに。
私は、昭和初期に生まれた祖母の、幼少期の写真を見たことがありません。存在しているかどうかもわかりません。きっと、カメラの普及率なんて、低いものだったんでしょうね。
カメラを持っていたなんて、革命が起きたといっても貴族なんだろうなぁ。
写真から想像する楽しさ
私は息子二人の育児において、写真を撮りまくっています。
成長の記録です。
いや、成長の記録だけではないですね。
息子の人生の記録、私の育児人生の振り返りにもなるような気がします。
まとめるのはちょっと大変ですが、懐かしんで写真を手に取る未来を考えたら、まとめないわけにはいきません。
何年か前、妹がPassage des Panoramas (パサージュ・デ・パノラマ)というアーケード商店街に行きました。
パリの パサージュは個性的で、ノスタルジックな雰囲気が魅力的なんですよね。
古い絵はがきやさんで、パリの絵葉書に見惚れてあさっていたら、こんなものを発見したそうです。
“1000回のありがとうとキス。マリーより。1904年7月19日 日本の夏”
明治37年の日本です。
時代を超えて、形を変えずに残る写真。写真を見て、マリーってどんな人だったんだろう。二人の関係はどんなだったんだろう?と思いを馳せるのも楽しいですよね。
日本の空気までおさめられているような、不思議な気持ちになるポストカードです。
私の息子たちの写真は、時を超えて私の子孫の目に触れるときがくるのでしょうか。
まだ、可愛らしい年頃の息子たちですが「わ〜!おじいちゃん、可愛い!」なんて言われる時がくるのかもしれないですね。
もしかしたら、まわりまわって、全くの他人が手にすることもあるかもしれませんね。
写真を見て、私の息子たちに対する愛情を汲み取って欲しいな。ほっこりしてくれたら本望です。
おしまい。